令和5年5月22日(月)

 病み上がりの出勤。昨日も出たけど。今日も少しだるかった。変更できない予定が入っていたため、今日のために治したようなもの。土曜日に熱が出た時、この予定をこなすには、日曜日も出ておかないとと計画したもの。それもこれも熱が出るとコロナだ何だと騒ぐ上司のせい。面倒に巻き込まれたくないがため、無理して日曜も出たのだ。とにかく、今日は何とか午前の予定をこなし、昨日の振替として3時間の休みをもらい、午後2時には退勤。図書館に寄ろうとしたら、駐車場がいっぱいで諦め帰宅。庭で妻と子が何やらやっていたので、すぐに着替えて合流。ブドウの木の枝の誘因をやったり、伸び放題だった木の枝をはらったりした。疲れが溜まっているのか、やりながら少しイライラもあった。疲れているだけだ。

 夜はメルカリでパソコンを購入。色々考えたけど1台はwindows機があった方がいいのと、何より息子に買ったマイクラのBedrck版がwindowsじゃないと動かないことが判明し、switchとのマルチプレイもやってみたいのでmacを選択肢から外した。

 ついでにLinuxにしてる自作PCwindowsを入れちゃおう。

 そんなことをしてたらまた夜がやってきた。

 カニ網も買っちゃった。子供たちと蟹取りをやってみたくて。焚き火をしながら、海辺でのんびり蟹取りなんか、お金もかからないしいいレクレーションだと思う。

 あとは、子供らを温泉に連れて行きたいな。ちょっと遠くの濁り湯の露天風呂なんかいいな。娘の車酔いが良くなればいい。どこも行けないもんね。今年は少し遠出ができるといい。車で行けたら経済的だからね。

 とにかく金をかけずに遊ぶ。山や海に行く。

令和5年5月21日(日)

 昨日熱発。38.3℃。かなりきつかった。疲れのせいだろう。今日は午前中仕事に行った。きつかった。今はかなりいい。

 最近寝つきが悪いのは、というか寝たくないのは、もやもやしているから。自分の行く末にもやもやしているらしい。どうも中途半端である。もう少し勉強をしなければ、と思いつつ、何も手がつかず、長続きしない。じっくりと腰を据えて、今後の行く末を思案しなければならないのだろう。とにかく考えることが大事か。散歩をするのもいいだろう。

 仕事に疲れているのもある。頑張っているのに一向に経済状態が回復しないのが辛い。徒労のような気がする。もう少し経済的に余裕があれば誇りを持って仕事ができると思うが、何だか虚しい。

 そこに尽きるのだと思う。

 お金のことは気にせず、やりたいことをやればいいのだとも思う。意味のあることをしていれば、後からお金がついてくると。神様を信じて生きていればいいのだと思う。信仰が足りないのだ。神への祈りが足りないのだ。

 天にまします我が父よ。あなたの名が讃えられますように。あなたの王国が来ますように。天においてなされているようにこの地でもあなたのご意志が成し遂げられますように。この日のパンを我にお与えください。必要な時に必要なものが我らと我が子らに与えられますように。

 

令和5年5月18日

 今朝も娘が私より先に起きていた。私より早く起きることが嬉しいらしい。自慢げにしている。娘に車に乗せていってくれと言われ乗せて学校へ。私は携帯電話を忘れてしまったことに気づき、娘を下ろした後、再び家に。こんな徒労が嫌になる。けれど少しばかし玄関掃除をして気持ちを整える。今日は何とか乗り越えた。

 職場では朝から色々。ゲンナリすること。通常営業。

 そう言えば昨日、スカウトサイトから電話が来ていた。職種が全く興味がないものだったので、迷わず断った。どこでもいいわけでは無いらしい。それでも都内で今より給料はいい。もう300万円多ければ即答してたかもしれない。が、そんなに私に価値はない。

 ほどほどで頑張る。いいことも悪いこともほどほどでいい。今は、3回払いで買った6,000円のバッグがすこぶる使い勝手がいいことが一番の喜び。風が気持ちいこと。空気が澄んでいて気持ちがいいこと。花が咲き、草木が芽吹き、庭仕事の喜びが帰ってきたことが嬉しい。たまに飲むお酒が美味しい。日本酒を買ってこようかなと考えている時間が嬉しい。小さな喜びはたくさんある。暗い気持ちになってる場合ではないのだ。それなのになぜたまに死にたくなるのか。

 そんなものなんだ。市川猿之助さんはどうして死のうと思ったんだろう。

 中学3年の3月。ジョン・コルトレーン。母が奉仕活動をサボって家にいた日。光が差す窓辺。弟が買ったCDだった。あんな日が僕には幸せだった。もっとあってもよかったのにと思うけれど。あんな日が1日でもあったから、今こうして何とか生きていられるのかもしれない。あんな日が1日でもあるかもしれないから、今こうして日々をやり過ごすことができているのかもしれない。

 できることなら、もう一度やり直したい。父や母が宗教にハマらず、仲が良く、収入にも恵まれていたならどうだったんだろう。こんなことをいまだに臆面もなく考えている中年男性は気持ちが悪いのだろう。

 まあいい。